・ 百葉箱

さらさらと、静かに 水が流れていた。
水は静かに岩の間を通り、水草を 揺らした。

怖いくらい透き通っている。
掌で掬ってみた。しびれるように冷たい。
ふと、何かが指に絡まった。
水から腕を上げてみると、白い布が巻き付いていた。
ハンカチーフだろうか?
私は、「それ」を広げようとしたが、まるで生きているかのように「それ」は、スルリと手から逃げた。


いや、「それ」は本当に生きていた。
一瞬の手品のように、布はオコジョのような、真っ白な生き物に姿を変えていた。
そしてその生き物はこう言ったのだ。

  「あなたの指はあれですか、ゴム製ですか」

私が答える間も無くオコジョは一反木綿のようにふわりと空を舞って、またもとの白いオコジョに戻った。
私は驚いて自分の指を確かめた。普通の指だ。

「どうしてそんな事を聞くのかい?」
「いや、僕はゴム製の指にしか巻 きつかないからね」

そう言っている間、オコジョはくるくると横に回っていた。
なんと返事をすればいいのか分からないので黙っ ていると、オコジョはスンと鼻を鳴らすとどこかへ行ってしまった。

しばらくすると、また妙なものが流れて来た。

あれは何だろう、足の生えた空き缶、のように見える。
それは子供の頃の記憶を呼び起こされるような、どこか懐古的な物質だった。
「足の生えた空き缶」は、水を蹴って器用に泳ぐ と、私の傍の岩から上がって来た。
それは「ぶぶぶぶぶ」と何か言っ て、同意を求めるかの様に私の方を見た。
そして空き缶は足をまげて、片足でぴょんぴょんと飛び跳ねた。
耳に水が入ったらしい。

その姿を見ていると、急にある考えが頭をかすめ た。
試しに、私はポケットから硬貨を一枚取り出し、缶の中に入れてみた。
すると空き缶は、一瞬ピタリと動きを止めた後、会釈して、優雅なダンスを見せてくれた。
まるで足が少し浮いているかのよ うな、全く体重を感じさせない動きだった。
空き缶は何分間か踊り、そして唐突に止まった。
ポケットを探ったが、もう硬貨は無い。
私は、何か他に入れられる物はないかと、辺りを見回した。
 

足元の岩の下に、コインのような ものが挟まっている。
何だろう、外国のコインだろうか。私はそのコインを手にとって眺めた。
よく見るとそのコインに刻まれた肖像画は、私の弟のものだった。

私は、そのコインを再び空き缶に入れた。
カシャン、と缶が鳴った。
そして少しの沈黙の後。

缶の中から、弟の声が語りかけてきた。

「兄ちゃん、あの時、母さんの真珠のネックレスを引きちぎったのは、俺じゃないよ」

私はそんなこと、すっかり忘れていたのだが、弟はずっと気にしていたのだろう。
不意に、弟に手を上げた時の感触が蘇って来た。

あの時、私は「言いたい事があるならはっきり言え」と言ったのだっ た。
弟は黙って睨み返してくるだけだった。

「そうか…悪かったな」

弟はそれきり、もう何も言わなかった。
足の生えた空き缶が、あざ笑うか のようにこっちを見た。
そして空き缶は、空き缶の声で私に話しかけてきた。
甲高い、何とも不快な声だ。

「本当はアンタがネックレスを引きちぎったんじゃないのかい?」

私はカッとなって、空き缶を蹴飛ばした。
空き缶は「ギャッ」と鳴くと、弧を描いて水に落ちた。
跳ね返った水が、真珠のように連 なって消えた。
空き缶はゴミのようにしばらく流れ、バタ足で遠くへ消えていった。

私はため息をついて周りを見渡した。もう変な生き物はうんざりだ。
私の真後ろの岩壁に、丁度人が一人入れるくらいの穴がある。
覗いてみるとそこは、洞窟になっていた。

なんだろう。

入ってみると、よく分からない石仏や、マネキン人形、剥製、壊れたマッサージ椅子、大量のコケシなどが陳列されていた。
さらに奥に進むと「お食事、みやげ」と書かれた、赤いノボリの立っ た小屋があった。
小屋の中に、全体的にこじんまり とした老人が座っていた。
その老人は、緑色の簡易椅子に座ってうつらうつらと身体を前後に揺らしていた。


私は勝手に空いている椅子に腰掛けた。
店内を見渡すと、西洋の甲冑、達磨、老人の書いたと思われる人生訓、鹿の頭のオーナメント、何かのトロフィーなどが並んでいる。
テーブルの上には、食べかけのミカン、占いのできる灰皿。
ワンカップ酒の空き瓶には造花が入っていた。

老人はふ、と笑った。夢でも見ているのだろうか。
私は上着のポケットからタバコを取り出して、テーブルの上のマッチで火をつけた。
ふ〜と煙を吐くと、煙はするするとテーブルの上の灰皿の中に吸い込まれていった。


暫くぼんやりしていると、女の子が店に入って来た。
小学生くらいだろうか。そして、私を見ると、感情の無い声で、「いらっしゃい」と言った。
女の子は造花の入ったワンカップのビンの底から小さな鍵を取り出して、
それを老人の首の後ろに刺した。
老人はうーんと唸って、口からシャチハタをべろりと出した。

そしてそれを、ラジオ体操の参加証明書に、ぽんぽんぽん、と押す と、適当に机の上に投げ出した。

女の子は私の向かいの席に座ると、勝手に私の吸いかけの煙草をくわえ、まるで大人のような仕草で煙を吸い込んだ。

「何か召し上がりますか?」

部屋の中をよく見ると、壁に木で出来た札が無造作に貼り付けられていた。
どれも何が書いてあるのかわからないが、一つだけうっすらとどうにか読み取れるものがあった。

「焼そば・・・」


女の子は奥に消えて行った。
多分、焼そばを作りに行ったのだろう。しかし、こんな店では何を食べさせられるか分かったものではない。
私は、今の内に帰ってしまおうかと思って立ち上がった。

その時、壁に奇妙な物があるのを見つけた。
それは黒ずんだ何かの塊だった。 巨大なゴキブリのようにも見える。南の島によくある、みやげ物のお面か何かだろうか。
私は壁に近づいてそれをよく見た。それは木のようなもので出来ていて、やはりお面のように見える。
私はゆっくりと手を伸ばし、その「何か」に触れた。後ろのテーブルの上の灰皿がゴト、と音を立てた。
ふりむくと、老人が起きていた。
そして、私の頭を灰皿で、力一杯叩き付けた。
私は昏倒した。

意識の遠いところで、あの女の子の声がする。

「殺したの?」
「・・・ングヤムグ、ゲレメソ」
「そうね、今はまだ…」
「フル、フリホ、グガムウ」

よく聞き取れないが、どうやらもう片方は、あの老人のようだ。
朦朧とした中で聞く女の子の声は、母の声によく似ていた。
そういえば、あの老人の顔も、弟とよく似ていたのではなかったか。

私は無性に悲しくなり、胸がぼんやりと疼き始めた。
気がつくと私は涙を流していた。老人が、ぐががが、と笑い声を上げた。
老人が笑うと、口からポロポロと真珠の玉が溢れ 出した。
そうだ。全て思い出した。

あの時、私がネックレスを――。

ネックレスを引きちぎり、弟の口に入れたのだ。
弟の口からのぞく真珠を見て、母は、弟の顔を思い切りぶっていた。
無抵抗に殴られる弟の口からは、ボタボタと血まみれの真珠の玉がこぼれていた。


記憶の紅い真珠と、老人の口から溢れる白い真珠が、洪水となって全てを押し流した。

私は真珠の渦の中に呑み込まれた。
渦の中心から何かがぬるりと私の 足を掴み、ずぶずぶと引き込んでいく。
視界がどんどん暗くなり、私は完全に息が出来なくなった。私の内臓からも無数の真珠が湧き出して、内側から腹部を圧迫している。


私は、膨らみきった風船のように弾けた。
闇の中に赤と白の光が飛び散った。

…気がつくと、私はあの水のほとりに立っていた。
静かな、透き通った水の流れ。
まるで、何も変わっていないかのような静かさだ。
ただ、ひとつだけ違うのは、

――百葉箱だ。

百葉箱は、ずっとそこにあったかのように苔むし、
白いペンキはところどころ剥げかかっていた。
私は狐に抓まれた様な気分で百葉箱をぼんやりと眺めた。
百葉箱の中から、ぐががが、と笑う声が聞こえる。


「あなたの指はあれですか、ゴム製ですか」

不意に、足元から声がした。
いつかのあの白いオコジョのような動物だ。
私はまたもや、思わず自分の指を見てしまった。

ゴム製だった。

「だったら大丈夫。その箱を開けてごらんなさいよ」

私は百葉箱に近づいて、ゆっくりとその扉を開けた。
開けた瞬間に真っ白い閃光が私の目を貫いた。手探りで箱の中をまさぐると、ちょうど真ん中辺りで四角い箱のようなものが私の手に触れた。すると光が消え、 私の手の中に古いテープレコーダーが残った。

弟の声は、テープレコーダーから聞こえていた。不意に笑い声がぷつと途切れ、テープは母の声を再生し始めた。

「げんきでやってますか?ごはんはちゃんとたべてい ますか?」

それは、とりとめもない話だった。
昔、運動会の徒競走で私が転んでしまったこと。
みんなで海水浴に行った時、クラゲが怖くて泣いてしまったこと。
弟が怒られて、食事を抜かれた時、私も意地を張って食べなかったこと…。

どれもすっかり忘れていたようなことだ。
そんな他愛もない話を聞いているうちに、私は、また自分が泣いていることに気がついた。
私の目から、ぽろぽろと涙がこぼ れ、地面に吸い込まれていった。
母の声は次第に小さくなり、テープがぷつと再生を終えた。
すると、いつのまにかテープレコーダーは焼そば に変わっていた。
そうだ。これは母さんの焼そばじゃないか。

懐かしいソースの匂いが、鼻の奥を刺激する。
私は割り箸をとって焼きそばを一口食べた。口の中でソースの甘い香りが広がる。
頭の中に子供の頃の思い出が、走馬灯のように駆け巡った。


ごめんなさい。
ごめんなさい。
ありがとう。

私は、泣き崩れながら、何度もそう呟いた。

私の肩に、誰かがそっと手を置いた。
驚いて顔を上げると、白い光の中に母さんと幼い弟が立っていた。

 
「…兄さん。焼そば、冷めちゃうぜ」

ああ、そうだな。みんなで食べよう。
母さんの焼きそばを。いつかのピクニックのように。

私は光の中に手を伸ばした。
光が、広がって私を包む。
そうか、と私は呟いて足を進めた。母さんと弟は、ゆっくりと小さな影となり、光の中へ消えた。

次第に何も見えなくなり、やがて、世界は、消えた。


―了―


(この小説は、佐山史織、木時由美香がリレー形式で書き上げまし た。)


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