縛られた狼
作・佐山史織
絵・ノビ




むかし、天上の金色の野原に一匹の狼がいました。
狼はとても大きく、たくましく、美しい毛並みをしていました。





狼は風のように草原を走るのが好きでした。
走っている時、狼は自分が「走ることだけ」になるのを感じました。
もっと速く、もっと遠くまで、狼は来る日も走り続けました。

しかし、神々はそんな狼を怖れました。
走っている時の狼は、あまりにも美しく、完全だったからです。





ある日、神々の一人が言いました。

「美しい音楽、ぶどう酒と料理、愉快な競技、何をしていても、
私の心は雲におおわれる時がある。
それはあの地響き、獣の足音を聞く時だ。

いつか、あの牙と爪が私を引き裂くのでは、
と考えると恐ろしくてならない。」


すると別の一人が言いました。

「君もそうか。よし、僕に良い考えがある。
あの狼を鎖で動けなくしてしまうのだ。
どんなに暴れても緩むことのない、特別、頑丈なやつだ。」





神々は、言葉たくみに狼に近付くと、こう言いました。

「君はずいぶん強そうだが、この鎖はきっと切れないだろうね。」

狼は、とまどいましたが、こんな風に誰かに話しかけられた事が
なかったので、うれしくてつい、こう言ってしまいました。


「そんなのは、たやすいことだ。よく見ていな」

そして体に鎖を巻き付けさせると、
狼は唸りを上げ、全身の力を込めました。

狼の姿が大きくふくれあがり、鎖は粉々に飛び散りました。
神々は、みな口々に狼の強さを讃えましたが、顔は青ざめていました。





それから何度も神々は、より強い鎖を作っては
狼を縛ろうとしましたが結果は同じでした。

いえ、鎖を破るごとに狼はより強く、より大きくなっていったのです。
そしてその度に神々の怖れも増していきました。
やがて狼は、神々の態度を怪しみはじめました。
もう、狼は誰とも話をしませんでした。





困った神々は話し合った結果、
最も美しい人間の娘を選びだし、こう命じました。


「狼に近付き、その弱みを探すのだ。
そうすれば、お前に永遠の若さと美しさ、
そして最も大きな巨人でも運びきれぬほどの黄金を与えよう。」





狼は娘を見て、とても驚きました。
太い木の幹のような狼の腕と比べて、
娘のそれは、まるで柳の芽のようにたおやかでした。

声は狼の知っているどんな小鳥の歌よりも明るく澄んでいました。
瞳は夕日を照り返して輝く湖のようにきらきらと光っています。

娘は、神々のきまぐれで天上に連れてこられたが
自分には行く当てがない、

この野原に一人ではとても生きて行けないだろう。
なんでもするから側に置いてほしい、と言いました。

狼は娘を側に置く代わりに
自分の友達になってくれないかと頼みました。

狼は生れてからずっと一人だったので、
こんな美しい生き物が友達だったら
きっと楽しいだろうと思ったのです。






もう狼は風のように駆ける事はありませんでした。
ゆっくりと娘と同じ速さで歩くようになっていました。
それだけで狼の見る世界はまるで別のものになりました。

時々、不意に狼は昔のようにどこまでも
駆けていきたい気持ちになることもありましたが、

狼は今の自分にも満足でした。

二人は一緒に食べ、歩き、眠りました。





狼は夜、岩穴で寝る前に娘に寄り添い、話を聞くのが好きでした。
かつて娘のいた世界の出来事や、古い言い伝え、英雄の伝説。
狼をおそれていた娘も、しだいに打ちとけ、
笑顔を見せるようになっていました。


「でも、きっと、どんな英雄よりもあなたは強いのでしょうね。
あなたは、いつか私のようなちっぽけなものを忘れて、
どこかへ行ってしまうのでしょう。」


「いや、俺はどこにも行かないよ。
お前といっしょにいるだろうさ。」


「本当に? だって、あなたは
神々の鎖でも縛られなかったのですもの。」


「そこに、地の底に住む小人たちの作った魔法の鎖がある。
それは目には見えず、お前の髪の毛よりも軽いが、
誰もほどく事の出来ないものだ。

もし俺が逃げ出そうとすれば、それで俺を縛れば良いさ。」





狼が眠りについた後、娘を呼ぶものがいました。
それはミミズクに姿を変えた神のひとりでした。
二人の話を聞いていたのです。

「娘よ、良くやった。
早速その魔法の鎖とやらでこいつを縛ってしまうのだ。

さすれば永遠の美しさも、黄金も望みのままだぞ。」

娘は、ためらいながらも、狼が示したものを手に取りました。
それは透きとおり、角度によって月の光をきらきらと照り返す、
絹糸よりも細いものでした。






目覚めた時、狼の身体はあの鎖でしばられていて、
娘はどこにもいませんでした。


狼は動きませんでした。

その様子を、陰で見ていた神々は、本当に狼が動けないのを知ると、
最初はおそるおそる、次第にぞろぞろと狼の側に寄ってきました。
その内の一人がこう言いました。

「やあ、ずいぶんと良い恰好じゃないか」

狼は答えませんでした。

「あの娘がどこか聞かないのかい?
今頃、こんな岩穴なんかじゃない、
立派な宮殿で、歌を歌ったり、ぶどう酒を飲んでいるだろうさ。」

狼の瞳は、ふしぎと静かで、おだやかに光っていました。

「まだ分からないのかね?
あの娘はお前を売って永遠の若さと富を得たのさ。
お前はとんだ道化だ。」

そう言って神々は笑いました。


狼は一つ、嘘をついていました。
それは、生れてはじめての嘘でした。


狼の身体に巻き付いているそれは、魔法の鎖などではなく、
ただの年経たクモの紡いだ糸でした。

本当は、狼を縛ることのできる鎖など、どこにも無かったのです。

しかし、狼は動きませんでした。





神々が、狼の手足を杭で打ち付け、
その口をぬい閉じる時も動きませんでした。

もう、狼は風のように走ることも、
月に向かって吠えることも出来なくなりました。


やがて誰もいなくなった岩穴で、
狼はずっと、最初で最後の友達と過ごした思い出や、

その姿、声を思い出していました。
そして、どこか遠くで、娘が幸せに暮していることを考えました。

娘は美しいどれいや、召し使いたちにかしずかれ、
広大な宮殿で毎日を過ごしていました。


しかし、どんな柔らかい極上の織物をかけても、
狼に抱かれて眠る安心はありませんでした。

どんな美しい声の詩人の調べも、
狼の低いうなり声ほど、心をふるわせることはありませんでした。

どんな遊戯も、狼といっしょに草原を歩いた時のような
温かな気持ちにはしてくれませんでした。


娘は、自分が永遠の時間とひきかえに、
満足すること、笑うことを失ったのを知りました。

そして、ある日、最も深く、暗い湖に身を投げました。

狼は、今も幸せに暮す娘を思いながら、静かに時を過ごしています。

 

終わり



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