武術と夢想と秘儀


 武術を語る上で、避けては通れないものがあります。
 それは、オカルトです。

 たとえば、相撲が神事なのは衆知ですが、剣術の発祥も鹿島の神官だと言われています。
 本来、戦場での主武器は槍と弓で、武勲を称するのも「槍一筋」「弓矢の家」というような表現をします。なのに、なぜ剣術が日本武術の顔と言われるのかというと、剣の持つ霊的な力への畏敬があるのではないでしょうか。これは三種の神器にも剣が含まれていることからも推察できます。

 そして流派の名称にしても「神伝」「夢想」などの名がついたものが多いのですが、これらの多くは「夢の中で神仏に授かった」「天狗に教わった」というような誕生秘話が多くついてまわります。
 これは、武術がブランドとして出自の正統性、系譜が重んじられた時代に、自分の考えた流派にハクをつける為の方便、という見方も出来ますが、実際に神秘体験をしたり、修験の行者から教わったということもあったと思います。
 たとえば私自身、どうやっても工夫のつかない足捌きがあり、そのことばかり考えていたことがあるのですが、その頃、こんな夢を見たことがあります。

 −どこか道場のような所。サンドバックがぶらさがっている。
 若い大柄な空手家が得意げにそれを蹴ると、派手な音をさせてサンドバックは吹き飛ぶ。
 その後で鶴のような老人が出てきてサンドバックを蹴るが、奇妙なリズムだ。若い空手家の蹴りは、蹴って、戻して、蹴って…というリズム。
モールス信号的に表わすと・−・−・だ。
 しかし老人は左右交互に回し蹴りをするのだが右で蹴って、次に左で蹴るまで、タイムラグがまるでない。・・−・・・といった感じだ。
 かといってジャンプしてるのでは無く、左右の足が、それぞれ逆方向に進む「動く歩道」に乗っているような、あるいはムーンウォークのような感じだ。床との摩擦がまるで感じられない。
 腰を捻らずに、蛇が巻き付くような蹴りで、当ると無音で足がズブリとサンドバックにめり込む。サンドバックは蹴られてから一拍置いてから揺れるが、次の蹴りが反対側から当るのでほとんど静止しているように見える。

 これは、このまま再現するのは現時点では不可能ですが、棒を使う時の足運びに大きなヒントになりました。
 体感や、言語化されない意識、外から吸収した情報などが形にならず、悶々としている時に、夢で答えを得ることはままあるようです。
 すこし違いますが、柔道の木村政彦は重要な試合の前には「小さい自分」が戦っているのが見えたり、新体道の
青木宏之も小人が杖術の型を行うのを幻視?して新体道杖術を完成させたと言います。(アブねえなあ…)

 『ぼくたちの心の中にだれかがいて、そのだれかが、なんでも知っているし、なんでもしようと思うし、なんでもぼくたち自身より、じょうずにやってしまうんだ。』
 −『デミアン』岩波版より 

 現代の一流と言われるアスリートも、自分だけの特殊なイメージトレーニングや、精神集中、リラックスの方法、呼吸法を持っています。
 昔の武術の奥伝、秘伝と言われるものが呪術めいたものであったのも馬鹿にはできません。
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武術とグノーシス


 「グノーシス」とはギリシャ語で「知識」を指し、後2〜3世紀におこった「知識による救霊」を指向した運動をグノーシス主義と呼ぶ。(丸うつし)

 最近では「知識」というと「知識偏重のつめこみ教育から、ゆとりの教育へ」とか、「知識だけではハエも殺せぬ」、というように、知識を軽視した風潮があるようです。
 しかし、自然を愛で、楽曲を愉しみ、良書に親しむ、というような「ゆとり」を支えているのは知識であって、いきなり金や時間だけ与えられてもゆとれない訳です。又、実際には「知識がなければハエも殺せない」のではないでしょうか?

 グノーシス主義でいう「知識」は、広い範囲の意味を含む単語で、例えば「勇気」というのもグノーシスの一種であるとされています。
 また、文字通り、「知」と「識」。知覚と認識を指すともとれます。
 東洋でいう「不動智」「自然智」あるいは「アラヤ識」のような、人間本来に備わっている根本の法である内在的な智を得ることで、己を知り、世界を知るという、西洋哲学と東洋思想の中間的な運動です。ヘッセやユング、鴨川つばめも一時期グノーシス主義に傾倒したといいます。これは、信仰と戒律によって救済を得るキリスト教、ユダヤ教などの一神教を脅かすものでした。

 何故、知識で救済されるのか?人間は知覚と認識が全てだからです。
 世界は何で構成されているかというと、まあ空間と時間です。そしてこれらは我々にとって主観でしか測れないものです。
 たとえば昔の人が東京から大阪まで行こうと思ったら大旅行だし、ほとんど外国のようでしょう。しかし今では出張で日帰りのできる距離です。これは物理的に距離が縮んだ訳ではなく、観察者の側の変化です。しかし我々の物指しはこれを大阪も近くなったな、と考えるのです。
 世界を変革するにはどうすれば良いか、己の認識と知覚を変革すれば良い、という訳です。

 で、本題ですが、武術もグノーシスの一種と言えます。(佐山もとうとう向う側の人間になったか、と思った方、大丈夫。元からです。)

 己の存在する位置と世界の距離を知覚する。自己の弱さや、生への希求心を認識する。これらを身体を物指しにして確かめることが出来るメソッドが武術にはあります。
 
 私は一時期、何もせず、ただ息をしているだけで魂が悲鳴をあげ、しかし表面には全くの無関心と無感動が仮面のように貼り付いていた時期がありましたが、武術というのは確かに一種の救済でした。なんの意義も求めず、自身が「ただそこに在る」事を肯定することができるようになったのは、4割くらい武術のおかげです。
 
 まあつまり何の話かというと、君たちは壷と水晶玉を買って私に汚れたお金をあずけなさい、ということですよ。
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武術と霊肉一元論


 「健全な精神は健全な肉体に宿る」などと言うと、じゃあ障害者は心も病んでいるのか、とか、スポーツマンは犯罪をおこさないのか等、いろいろ突っ込まれそうです。しかし、そういう話ではありません。
 この言葉の「健全」の概念は何を指すのでしょう。筋骨隆々としたオリンピック選手でしょうか?坊主頭の高校球児でしょうか?
 しかし、彼等の多くは特殊な訓練により、多くの故障を抱えています。また、競技者としての時期を過ぎた後の人生は必ずしも幸福とは限らず、人間の理想とする「健全」とは言えません。

 同じように教育における体育というのも、正体の掴めないものの一つです。
 教育の三本柱として、知育、徳育、体育などというお題目が唱えられています。
 知育、徳育なども実際に行われているかは怪しいものですが、とりあえず、その範を古の聖賢に求め、かくあるべし、というような「知」と「徳」のイデアが、あるにはあるようです。では、「体育」の完成形というのは、何でしょう?跳び箱と持久走と組体操とバスケットボールに共通の方向性はあるのでしょうか?

 そうです。この国では、スポーツや健康について、盲目的信仰を持ちながら、その本質については何も考えていなかったのです。
 もっというと、馬鹿にしていた。
 体育教師のステレオタイプはジャージで竹刀を持った生活指導のゴロツキまがい。元スポーツ選手のタレントはクイズの珍回答係。「筋肉バカ」という言葉に代表されるように、身体運動は精神活動の下位に置かれるものと考えていたのです。
 文武両道などと謳っている教育機関なども、単に勉強の出来る生徒と運動の出来る生徒が別個にいるだけで、一人の人間に文武が備わってる訳ではありませんでした。

 では、本当に身体は精神より下位の存在なのでしょうか?
 「当たり前だ。心が体を動かしているのだ、そんなのは近代人の常識だ」と考える人は多いかもしれません。しかし、「生理でイライラする」「だるくてやる気がおきない」といった事例はどうでしょう?身体が精神を支配していると言えないでしょうか。そして精神を病んだ人が、精神科でもらった1グラムの白い粒で、死の想念から逃れる事をどう考えるのでしょう。薬は身体に働きかけたのに、精神が癒されたのです。「精神が肉体を支配する」のを近代的というなら、「根性さえあれば何でもできる」のも先進的意見になってしまいます。

 私の結論を言いますと、精神とはプログラムの集積であり、身体はプログラムをインストールする、ドライブや、スキャナーだと考えます。
 身体に何の刺激も情報も入らなければ、どんな高性能のマシンも無価値です。いうなれば、精神は身体によって形成されるのです。精神は身体の鏡、身体は世界の鏡と言えます。
 ならば、健全な肉体、完成された体育とは、外界の刺激に正確に反応する身体作りではないでしょうか。
 これを古人は言いました。「馬鹿は風邪を引かない」と。馬鹿は精神の問題で、風邪は肉体の問題だから別問題なのか。そうではなく、暑ければ汗をかき、渇けば水分を欲し、寒ければ厚着し、具合が悪くなれば休む。こうした、刺激にたいして適切な反応が起こる結果として風邪も引くべくして引くのです。ところが、馬鹿は冬でも半ズボンで平気です。刺激に対して反応が鈍いからです。結果、寒い時はどうすれば良いか、という経験のプログラムが抜けてしまうのです。

 武術的に言うなら、暑ければ脱ぐのが当然のように、襲われた時は避ける、防ぐ、反撃する、という事が当たり前に出来なければなりません。しかし、馬鹿は「オデ、殴られても平気ダドー」と言ってるから、回避も反撃も習得できないのです。
 これは長い目で見れば平気じゃないのは自明の理で、風邪を引かないからといって冬に薄着でウロウロしていたり、殴られても痛く無いからといって避けずに食らい続けていたら、いつかは死ぬのです。

 人間は動物より高スペックなマシンを積んで生まれてきます。しかし、その分、動物ならあらかじめ組み込まれているプログラムを、後天的に獲得しなければならない面があります。何故、身体運動が必要かというと、それを得るためです。そして最も重要なプログラムである「暴力に対しての反応」を得る為に武術が必要なのです。

 健全な肉体と精神。それは殴られてぼんやりせず、すぐ殴りかえす肉体と精神であります。そして、心身が乖離できないものならば、護身とは、護心でもなくてはならないとも言えます。

 この箴言のもともとは「〜健全な肉体に宿れかし」で、宿れば良いのにな、という意味だったとの指摘を読者の方からメールで御指摘頂きました。おーう。しかし直すと文意が珍妙になるので、まあ、このまま載せておきます。どうも。



間違いだらけの道場選び


 ここまで読んできた奇特な貴方は、そろそろ入門したくてたまらない頃かと思います。
 しかし、どこに行けば良いのかわからない!そんな貴方。
 俺に習えば良いじゃない。
 といってしまえば全て解決しますが、地理的に無理な人もいるし、まあ、このページは武術全体の隆盛を目的としているので、一般論で話をします。

 まず、道場を選ぶ際は、ある程度、事前に下調べをして、できれば見学させてもらいましょう。
 この際、見学を断る流派だったら理由を聞きましょう。実は、見学を断るというのは一つの見識で、本当に命のやりとりを想定した時、自流の技が知られているというのは致命的なことなのです。

 ですから、昔は武術家同士が型などを見せあう時は、重要な動作を抜いて見せたり、帰った後、地面に付いた跡で研究されないように、足跡を残さないようにしていた程です。
 現代でも、グレイシー柔術などは、登場当時は誰もその戦法に予備知識が無かった為、無類の強さだったのが、有名になり研究されることで、必ずしも無敗とは言えないものになってしまいました。

 逆に言えば、もし見学させてもらえるなら、それは「命」そのものを見せてもらうという事ですから、貴方も、「命」を以って応えるのが礼儀です。真剣に見ましょう。もし、自分には合わないと感じたら、すぐ引き上げるのも礼儀です。興味が無いのに惰性で見ているのは見学ではなく見物です。武術は見せ物ではありません。

 見学出来たら、次のポイントをチェックしましょう。

 1・感じのよさ
 厳しいのと感じが悪いのは全く別問題です。変に生徒に媚びたような師範も良くないですが。

 
2・体格
 自分と似た体型の師範に習いましょう。小さい人が大きい人の技を真似るのは無理が生じます。(その逆も)

 3・出自
 たとえば、クツの文化の武術は踵から踏出し、サンダルの文化の武術は爪先から接地します。裸足の文化の武術は摺り足です。(大雑把なので例外もありますが)
 このように武術は、発展した風土や文化の影響を大きく受けています。これらを鑑みて矛盾が生じるような動作がある流派は、来歴を偽っていたり、変形してしまっている可能性があります。
 出来れば、自分の血のルーツに近い文化の武術の方が習得は容易です。リズム感、間、拍子といったものが染み付いているからです。「本当のカポエラ」を日本人が習得するのは無理だし、白人がボクシングのチャンピオンになるのも難しいでしょう。それと同じです。

 そして最後に、なんといっても、その師範の技に惚れられるかどうか、です。
 武術は、常に批判精神を持っていなければ、盲信、馴れ合いになりますが、それと同時に武術の凄さ、可能性を信じることが出来なければ、何も得られません。その師範の持つ空気や動きに、それを見出せなければ、やめておいたほうがいいでしょう。

 以上ですが、自分に当てはめると、これ殆ど当てはまりませんな。
 どうするか。
 どうにもなんねえな。









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