武術を語る

 とか、唐突に改まるのも何ですが。
 そもそも人が面白いと思うのは、

   秘境の温泉の従業員が実は元殺し屋。
   秘境の温泉の近所のスナックのママが褌マニア

 といったような意外性ですから、(湯けむりスナイパー最高!) 武術家が武術の話をしても至って普通。面白くなかろうと思っておりました。
 が、あまりにも武術について発言しなかったので、 私が武術家だという事がまるで浸透していない事に気がつきました。 いや、それ以前に武術自体が一般社会に浸透していないではありませんか!

 たとえば、貴方はジャニーズ事務所所属のタレントを何人言えますか。 あるいは、漫画家でも、Jリーガーでも、小室ファミリーでもいいです。 果してそれと同程度に、現在、一線にいる武術家の名前を挙げられるでしょうか?挙げられる人は、まあ、ちょっと病気なので通院をお勧めします。)
 で、このままだと武術は遠からず滅ぶのではないかと思い、 いかん。私が救わねば、と思った訳です。

 ハルマゲドンは迫っています。 戦士、巫女、竜族、オコタンペという名前に聞き覚えがある方、今すぐ御連絡を!
     

武術の定義

 そもそも武術とは何かと言いますと、実はいまだ定義されていません。
これが、武術界の面白い所でもあり、困ったところでもあるのですが、共通の言語が無いのです。

 例えば、世界数学者会議というものが開かれたとします。お互いに言葉は分かりません。しかし、黒板に数式を書けば、皆、それが何を示すか分かる訳です。ある国では3が4を指したり、+が−だったりしないからです。
 しかし、武術家が十人集まって「武術とは何か」と話し出したら、最終的には殺し合いです。
誰もが自分の武術のみが本物と考えているからです。

 私が武術について説明する時はとりあえず、

「武」は、「矛を止める」の意なので、自己防衛のためのものであること。
 矛は「矛盾」の故事にあるように強い武器の代表だから、自分より強力な敵との戦いを想定したものであること。
 武士と兵士、武器と兵器を比べると分かるように、 あくまで、個人に根ざした思想であること、

等を挙げています。

 また、「術」については、「奇術」「幻術」のように、種や仕掛けを知らない者には分からないような、 あり得ないことを起こす業、と考えています。武術の場合、小が大を制す、等。

 …が、人によっては「武」は矛を持った人を象った文字で、「武術は、最大の威力を以って、如何に効率的に人を殺傷するかの術。突き詰めれば細菌兵器、核も武術の一種である」とか真顔で言う人もいる訳です。「武術は武道から精神性を排除した、粗悪で野蛮なレプリカ」とか、「伝統芸能の一種」としか認識していない人達もいます。うーん。

 同じように、「合気とは何か」「空手とは何か」といったような事を武術家同士が話しても、お互いの根本認識がズレている為、噛み合いません。なので、自分の流派に引き蘢り、ますます閉鎖的になり、自分達にしか分からない用語で話し、世間に壁を作ります。
 そして、互いの無理解を罵りあって、潰しあい、滅んでいくという図式です。武術って本当に怖いですね。
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格闘技・武術・武道

 いまだ定義の出来ない武術ですが、最低限この章の表題三つは分けないと話が混乱するので、便宜上分けます。

 まず、一番分かりやすい格闘技ですが、「格」は「取っ組み合う」という意味なので、武器を使用するものは除外されます。また、競技としてルールが明文化しているのも特徴です。

 武術は前章で述べたようなものなので、必然、「実用」を前提としたものです。

 対して、武道は「人間としての完成に至る道」としての「武」ですから、
必ずしも実用的である必要は無いわけです。弓道、居合道などがその代表例と言えるんじゃ無いかと思います。仮に敵というものを想定しても、それは自己の隙を指摘してくれる鏡としての役割なのです。

 しかし、例えば本来の柔道は武道ですが、オリンピック選手にとって柔道は格闘技ですし、警察官にとっては武術的な取り組みがなされています。このように、やる人間の認識、主観で変わることもあるので、まあ、何とも言えません。とりあえず、やってるとモテるのが格闘技で、モテないのが武術と覚えると間違いが無いでしょう。
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現代における武術家

 たとえば、想像して下さい。
 TVのバラエティー番組で、合コン、お見合い的な企画があります。男性陣には、医者、編集者、クリエイター、ミュージシャンなどが、それぞれの仕事着、衣装で登場します。

 その中に道衣もしくは着物の武術家もいます。

 この時点で武術家に求められているのがピエロの役割であることを、視聴者は理解するわけです。当然、女性陣には上手に話し掛けられず、あまりの所在の無さに、隅っこで素振りとか始めます。
 気を使った女性が、少しでも武術に(興味も無いのに)質問したなら大変です。延々と、相手を置いてきぼりにしたマニアックな技術論を、場が白けているのに気付かずに語り続けます。
 アピールタイムになり、他の出場者が楽器を弾いたり、各々の特技を披露します。

 勿論、武術家は演武です。

 おしゃれな立食パーティーの場で、ミスマッチな道衣姿の男の演武。響き渡る奇声。そして、ニヤニヤ笑いと乾いた拍手…。

…駄目だ、書いてて涙出てきた。

 告白タイムの結果は分っています。
 仮に「今時の男性に無い純粋さと情熱に惹かれた」とか言う女性が出てきたら、それは、ヤラセです。欺瞞です。ファンタジーです。
 これが、これが現代における武術家の扱いなのです。
縮図です。
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武術の問題点・1

 武術が滅ぶ、滅ぶと言い続けている私ですが、何故、滅ぶのか理由を考えますと第一に、マイナーだからです。
 マイナーであるということの問題は、まず、競争が無いことです
。例えば、駅前にラーメン屋が一件しかない土地があります。たとえ、旨くも不味くもない店でも、そこそこ、客は入るでしょう。
 で、その土地で育った人間には、それがラーメンのスタンダードになります。そして、人は「ラーメンなんて大して旨いものではない」と考えるようになり、その土地の人々の共通認識になってしまうのです。世界には凄く旨いラーメンがあったとしても!

 これに近い構造が、武術にもあります。
 結果、低レベルな指導者が増殖し、世間の認識は低くなり、単なるエクササイズや、子供の習い事と思われる訳です。
 「家から近い」「どうせ、どこでも大して変わらないだろう」といった考えで、安易に入門する人の何と多いことか。

 その根底にあるのは「たかが武術」という考えです。主婦が、特売品を買う時の真剣さに比べてどうなのか。ロックフェスティバルなら、富士まで行くじゃないか。コミックマーケットなら、有明まで行くじゃないか。クソッ!
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武術の問題点・2

 では、何故、武術がここまでマイナーになったのか。それは武術に必然が無くなっているからです。

 本来、武術は「生きるか、死ぬか」という、キワキワの線での人の在り方を追求したものですが、現代ではそれはナンセンスなことです。
 武術の中には「実戦」を看板にかかげ、売り物にする流派が多々ありますが、細菌兵器やミサイルなどに武術は何の役にも立ちません。いや、現代より武術の達者が多く、兵器も旧式だった明治以前でさえ、すでに武術は戦の場では役に立たないと言われていたのです。

 では、現代で「実戦」とは何を指した言葉でしょう。
 チンピラとのショボい喧嘩でしょうか。そんな事の為に膨大な時間、金を注ぎ込む意味は無いでしょう。

 そう、武術は実用が命なのに、実用する機会がないという矛盾があるのです。日本人の殆どは、武術が無くても生きているし、むしろ、護身という観点でいえば、武術を習うことで怪我をする、といったマイナスの面さえあります。
 また、「生きるか、死ぬか」ということであれば、資格、パソコン、運転免許、英会話といったものに投資した方が、よっぽど、明日のおまんまに結びついている訳です。

 そして、武術は趣味人、マニアの道楽になり、馴れ合い、形骸化の一途を辿りつつあるのでした。
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武術の問題点・3

 武術の素晴らしさを余す事なく伝える事を主旨としたこのページ。
 何故か、延々と武術の悪い面ばかりを取り上げている気もしますが、それも武術の未来を憂うがゆえ。膿みを出さなければ傷は治らないのです!武術に傷みを伴う構造改革を!
 …まあ、小泉嫌いなんですけど。(エセ右翼め!)

 で、武術の問題点です。
 武術というのは、まあ、はっきり言ってズルです。相手に力を出させずに勝ったり、相手が一動作する間に、自分は二動作する、と云うように、いかに出し抜くか、です。
 つまりその技術は、 自分は出来るけど、相手には出来ない事でなければ意味がありません。
しかし、それが高度すぎると、才能の無い人は習得できなくなってしまいます。
 かといって簡単に習得できるものは、破るのも簡単だし、相手もそれを使えてしまうので、意味がありません。このジレンマも問題点と言えるでしょう。

 また、似たような事で、教習法の問題があります。
 武術を発展させる為には武術人口をもっと増やさなくてはいけません。しかし、武術の本質を伝えるには、マンツーマンか、それに近い少人数で稽古するしかないのです。
 その為、前に述べた問題と相まって、優れた武術ほど人が集まらず、絶滅に瀕するという事態になっています。まいったね、どうも。
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武術の意義・1

 武術の問題点を散々書いてきましたが、では、一体何の為に人は武術を錬磨するのでしょう?
よく分りません。

 私の場合、武術が俺を選んだのだという、何の根拠も無い一種の宗教的確信で武術をやっています。健康な人間には精神安定剤は無意味、無価値ですが、それを必要とする人には不可欠なように、私にとっては武術は福音であります
、が、一般的に人が武術をやる必然は、あまり想像できないのです。
 
 しかし、人を好きになるのだって、「この人のこの資質が好きで、こういったメリットがあるから交際しました」と、言える人は希有で、大体、知らず知らずのうちに好きになっているのでは無いでしょうか。むしろ、恋愛に損得勘定や打算を持ち込むなと言いたい。

 そう、武術は無駄かも知れません。
 しかし、無駄な事を真剣に出来るのは人間だけの特権であり、それこそが文化なのではないでしょうか?!

 …まずい。なんのフォローにもなって無いかもしれない。

 続きます。
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武術の意義・2

 いえ、意義はあると思います。えーと、意義、意義ね。あれはどこに仕舞ったっけな。
 うん、うまく言えないけど、武術が無いと困るんですよ!…という解答ではモギュタンくらいしか納得しないですかね?

 武術は思想的には今、変動期にあります。
 それは新時代における武術の意義が問われているからです。
 とある武術家(武術研究家?)が、「武術の動きは他分野の運動や、スポーツ、介護などにも応用できる」という事を主張していました。
 勿論、行き詰った時、異分野の人や物にヒントを得ることはあります。しかし、サッカーを早く上達するにはサッカーをやった方が確実です。それに、「うどんが凄いのはラーメンに応用できるから」ではなく、「うどん自体が食って旨いから」でしょう。

 つまり、武術をやると、武術が身につく、という以上の意義は本来無かったはずなのです。
 私はこれで充分だし、多分、最大の解答なのですが、武術が必然を持たない現代には、無意味な答えになってしまいました。

 ですが、ある意味、今、武術で一番面白いのは、この矛盾と閉塞感なのです。
 完結した世界、理論というのはお膳立てされたもので、新しいなにかが生まれる余地がありません。しかし、大量の矛盾を抱えているというのは、凄い可能性をも秘めているということです。
 「術」とは、「ありえない事をおこす業」と書きましたが、最強の「矛」と「盾」を両方手に入れることが出来れば、ちょっと凄いと思いませんか?

 『ぼくたちの神は、アプラクサスという名で、神でもあり、同時にあくまでもある。明るい世界と暗い世界を、一身にやどしているのだ。』

 『鳥は卵からむりに出ようとする。卵は世界だ。生まれようとする者は、ひとつの世界を破かいせねばならぬ。鳥は神のもとへとんでゆく。その神は、名をアプラクサスという。』


−『デミアン』岩波版より  

 現代の武術の意義は、武術の意義を創造する行為の中にあるのかも知れません。
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