矛盾の力

 矛盾を内包するものにこそ可能性がある、というのをもう少し説明します。
 例えば、いわゆる「童顔なのにナイスバディー」です。
 1足す1を10にも100にもするこの爆発力。対立する二要素を合わせ持つことで、より高次の存在に昇華されている訳です。コクがあるのにキレがある」といった類いもそうでしょう。

 武術でも、空手の剛柔流なんかは名からして、剛と柔です。太極拳の「太極」も陰と陽で出来ています。
 また、武術の動きのモデルとして、よく、円運動が引き合いに出されますが、
円も相反する二つの働きを備えています。車のハンドルのように、押すと同時に引く働きがあるのです。また、回転することで、外周の運動性と、中心の不動性を合わせ持つことが出来ます。
 
 このような、「〜なのに〜である」という考えの先に、「〜だからこそ〜である」という発想があります。

 法然や親鸞の説いた、悪人正機説では、 「悪人だからこそ、救いがある」と言われています。うろ覚えですが、自動販売機で、「あたたか〜い」飲み物と、「つめた〜い」飲み物を両方出せるのは、冷やす時のモーターの熱を使って温めるから可能なんだそうです。
 武術の理論も、この、「〜だからこそ〜である」というのが理想と思われます。
 例えば、少ない予備動作で威力を出す当て身の打ち方で、寸勁といわれる技法がありますが、これも、「少ない予備動作なのに、威力がある」のではなく、「少ない予備動作だから、威力がある」というような必然がないと、ただの曲芸になってしまいます。

 また、演武やミット打ちなどでは凄い威力の攻撃が、実際に戦うと、そんなでもないという事例があります。
 これは色々理由がありますが、最大の理由は、ビビリです。
 こちらが攻撃する瞬間は相手のチャンスでもあるので、反撃を恐れ、威力を出し切れないのです。
 つまり、攻撃は、その中に防御を含んでいてこそ、威力を出せる訳です。
 逆に、防御も、どう攻めてくるか分らないものを全部捌こうというのは無理ですが、こちらに常にカウンターを取る体勢があれば、相手の行動を大幅に制限し、受け易くなります。
 防御は、その中に攻撃を含んでいてこそ、相手の威力を封じられる訳です。

 そして、武術家というのは、同種である人間を殺傷することに異様な執着をしていることで分るように、大体、人間的に欠落した部分の多い社会不適応者なのですが、「欠落した人間だからこそ辿り着ける境地もある」のではないかと言ったりしてみます。
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武術と依存

  −事例その1、S青年のケース

 Sは、元来、社交性に乏しく、離人感や、現実生活においてのリアリティーの欠如をしばしば感じていた。また、理想の「あるべき自分」と、現実の「弱く卑怯な自分」とのギャップに苦しんでいた。

 Sは、唐突に「自分は武術に選ばれた」と思い、武術を始める。
 武術を稽古することで、「自分と世界の間の距離が埋まる」、あるいは、「武術をやっている間だけは自分を許せる」といった発言をしている。

 武術を常用している間は、一種の全能感をもち、「自分が世界で一番強い」と感じるが、稽古を終わると、「弱さが自分を侵食していく」という強迫観念に襲われ、夜半に叫びながら家を飛び出して、公園で棒などを振り回し、警官に呼び止められることもしばしばあったという。

 恐怖や痛みによってのみ世界にリアリティーを求め、耐性がつくにつれ、稽古内容は、より危険なものを好むようになる。そのうち、「死の淵にタッチして帰って来ないと、生の充実感は味わえない」などと口走るようになる。
 この時期は、誰の目から見ても様子がおかしく、「いつ敵に襲われるかもしれない」と常に考えていたり、延々一人で、反復的動作を行い、「今のは遅かった」「左足の位置が…」等と、
ブツブツ呟くようになっていた。


 −現在Sは、周囲の人々の援助により、武術なしで社会生活を営めるようになり、55kgだった体重も72kgに復したという。
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武術は暴力か?


 ナボナはお菓子のホームラン王だし、王様の耳はロバの耳です。
 そして武術は暴力です。
これは疑う余地なく暴力です。
 これを断言せず、事の本質をぼかしている武術団体は多いですが、私は暴力自体が危険なのでは無く、それについて無自覚に携わることが危険なのだと思います。
 「日本の原発は安全だ」とか、「自衛隊は軍隊ではない」というように、危険なものを危険でないように装おうから、問題が起きるのです。

 何故、武術は暴力である、と武術家は断言できないのでしょう。
 当然ながら、暴力は社会秩序を乱すものと言われており、それを肯定する団体は、暴力団ということになり、社会的に抹殺されるからです。
 しかし、日本においても暴力が容認されている団体があります。
 警察と軍隊です。

 日本では、何かことあれば、これらの団体にまかせ、個人は何もしないでいいような考えが蔓延しています。しかし、本質的にこれらの団体が守っているのは、人間、個人ではなく、組織です。
 歴史的に見ても、彼等が命令さえあれば、その銃口を市民の側に向けるのは珍らしいことではありません。
 ホームレスに高圧放水を浴びせ、戦争反対の集会に催涙弾を打ち込み、急いでる時に限って俺の自転車を呼び止めるのが彼等の本質なのです。
 もし、突然、国家が独裁政治を始めたら、私達は何も為す術なく、牙を抜かれていた事に気がつくでしょう。
 暴力を国家が管理する社会は、極めて危険なのです。

 じゃあ、アメリカのように誰もが銃を持ち、中学生が学校で機関銃を乱射するような社会がいいのか?それは論外です。

 ではどうすればいいか?ここで武術の出番ですよ。
 武術は、個人の持つ最小の牙です。しかし、一番最後に頼れるものです。
 たとえ、身ぐるみ剥がれてフルチンにされても、誰も身に付けた武術を奪うことは出来ないのです。そしてそれは、体制の為でも、組織の為でも無く、あなたが自分の命のために、自分の判断で使うものなのです。
 大変だ!入門しないと!
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武術の思想・死生観

 武術は実用品です。しかし、だからといって思想がないわけではありません。
 ノコギリも包丁も実用品ですが、ノコギリで魚を捌いたり包丁で柱を切る人は 少ないと思います。つまり、何の為に、いつ、どのように使う為のものか、という設計思想が必要な訳です。

 武術は、何に対して実用的なのか、というと、前述してきたように生きるか死ぬかの場での対応においてです。禅の言葉で「咄嗟」というのがあり、我々も日常語で「とっさの時」と言います。
 禅における完成した人間像とは、「咄嗟」の時に、理や損得でなく、反射的に見事な対応が出来るような人を指すようですが(間違ってたら失礼)、剣禅一如というように、武術でも、極限状況での対処、立居振舞が設計思想の根幹です。
 
 しかし、禅の公案に決まった答えが無いように、極限状況で人は何をどう判断すべきかというのは、答えようのないものです。例えば、「醜く卑怯なことをして生き残るのと、尊厳を守って死ぬのはどちらを選ぶべきか」と聞かれたら、なかなかすぐ答えは出せないのではないでしょうか。
 
 そういう事も含めて、武術の思想とは、死について考える事でもあります。そして、死について考えるのは、同時に、生について考えることでもあります。それも、机上の物としてでは無く、たった一つの自分の命の問題として扱うのです。(ですから、本来は既製品の武術にのっかるのでは無く、人は一人一流一派。自分だけの考え方で死に取り組むべきなのです。)

 極端に言うなら、武術の「流派」とは、死に対する考え方の差で生まれるものとも言えます。
 そして、思想が理論を作り、理論が技術を産み、技術は思想に還元されています。
 流派の思想を最も顕著に表わすのは「構え」ですが、同じ「せいがん」の構えでも、流派によって、「青眼」「正眼」「制眼」「征眼」と、意味が別になります。つまり、生きる為の武術か、殺す為の武術かというスタンスの違いです。
 「流派」「構え」「思想」。どれも英語にすると同じ「スタイル」なのは面白い所です。

 「こじつけだ。武術は思想なんて無い『道具』だ。とにかく機械のように敵を殺すことにのみ能率的であればいいのだ」と思う武術家もいるかも知れませんが、同じ人間なのに彼我の生命を分けて考え、我の方を尊いから彼の命を奪っても良いとするのは、既に価値判断が入っている訳ですから、それも思想と言えます。

 最後に、私自身のスタンスを述べると、武術は「生きるか死ぬか」であっても「殺すか殺されるか」ではないと思っています。一見、回避不可避の二者択一で、どちらでもない答えを出せるのが、私にとっての「強さ」です。


武術の思想・死生観・おまけ


 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』で、蠍がイタチから逃げて井戸に落ち、「無駄死するくらいなら食べられてやればよかった。自分も多くの命を奪ってきたのだから」というような事を言っていて、美談とされています。
 しかし、武術的に見ると、食べられて死んでも良いというような考えなら最初から他の生き物を殺すべきでは無いし、殺してでも生きると決めたのなら、1%でも望みを捨てずに逃げ延びるべきです。
 
 それで井戸に落ちても、まだ何らかの形で脱出することを諦めてはいけないし、よしんば死ぬのみだったとしても、その残り少ない生が無意味であるとは思いません。

 武術は「自分は誰にも殺されない」という世界へ向けての意志表明なので。













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